貝塚寺内町の産土神、神田河原大明神として崇福寺二代目住僧円海が天正15年頃陶器の祠を造って祀ったが、「河原」を「瓦」に替えて感田瓦大明神と称した後、岸和田藩主が神徳を感じで神領を寄進し奉ってより「神」の字は「感」の字に改められ、感田瓦大明神としょうされた。慶安元年社殿再営、慶安3年和泉式内六十二座の列に準ぜられた。明治維新後の神仏分離により、明治5年郷社に列し明治40年海幸戎神社を合祀した。